国際的偉人・新渡戸稲造のお墓を訪ねて
日本人なら誰もが一度は目にしたことがあるであろう“あの顔”——旧五千円札の肖像として親しまれた新渡戸稲造(にとべ いなぞう)。彼が静かに眠る場所は、東京都府中市にある広大な多磨霊園。その落ち着いた空間と、意外にも控えめな墓碑の佇まいを写真とともにご紹介します。

新渡戸稲造とは
新渡戸稲造(1862–1933)は、明治から昭和初期にかけて活躍した教育者・思想家・国際人です。代表的な著作『武士道(Bushido: The Soul of Japan)』は、英語で書かれ欧米で広く読まれました。これにより、日本文化や精神性を世界に紹介する先駆者となりました。
教育界では、東京女子大学の初代学長や国際連盟事務次長を歴任し、平和主義を貫いたその生涯は、まさに「世界市民」と呼ぶにふさわしいものでした。死後は彼の功績を称える形で、旧五千円札の肖像に採用されたことでも知られています。

緑と光に包まれたアプローチ
多磨霊園の園内は、四季折々の自然が彩る穏やかな道が続きます。木漏れ日が美しく差し込む並木道を進むと、やがて新渡戸家の墓所が見えてきます。

区画は「7区1種5側11番」です。

周囲には古くからの立派なお墓が整然と並び、静けさの中にも荘厳さを感じさせます。

墓石が見えてきました。
新渡戸稲造とその家族が眠る場所
緑のトンネルを抜けると、視界が開け、そこにひっそりと、しかし堂々とした佇まいの墓所が現れます。

両側から伸びた植木がちょうどアーチを描くように重なり、その下をくぐる瞬間は、まるで過去と現在をつなぐ時空の境界を越えるような感覚すら覚えます。



正面に堂々と建つのが「新渡戸稲造之墓」。その右手には、早逝した長男・新渡戸遠益(とおます)氏の墓碑が静かに寄り添うように建てられています。そして左側には、新渡戸家ゆかりの人物たちの名前が刻まれた墓誌が設けられ、代々の歴史がそこに記録されています。

中央に「新渡戸稲造之墓」と彫られています。周囲を整えられた木々に囲まれ、陽光の下で落ち着いた佇まいを見せています。派手な装飾はなく、むしろ彼の思想や人格を映すように、質素で静かな印象を受けます。

新渡戸遠益之墓。新渡戸稲造と妻・萬里子の長男として誕生した遠益(とおます)は、生まれてわずか一週間余りでその短い命を閉じました。希望とともに迎えられた新しい命は、儚くも早すぎる別れとなり、稲造にとって計り知れない悲しみを残しました。
この深い悲嘆は、約20年後に著された著書『修養』の中でも語られており、稲造はこう綴っています。
「子を失った悲しみは暫く口に出すことも苦痛だったが、最近やっとそれほどでもなくなった。」
この一文からは、父としての強い愛情と、失った痛みがいかに深く、長く彼の心に残っていたかがうかがえます。多忙な教育者・思想家であった稲造にとっても、遠益の存在は特別であり、生涯を通じて彼の心の中に生き続けた存在だったのかもしれません。

墓誌には、新渡戸稲造を筆頭に、妻・萬里子、夭逝した長男・遠益(とおます)、次いでこと、誠(まこと)、そして武子(たけこ)の順に、その名と没年が記されています。

同区画には、「野河」と刻まれた墓石がひっそりと佇んでいます。周囲を木々に囲まれ、日差しがわずかに差し込む静かな空間に建てられており、訪れる人も少ない様子です。この墓石の由来や埋葬されている方についての詳細は不明ですが、新渡戸家の墓域の中にあることから、何らかの関係があるのかもしれません。控えめながらも丁寧に整えられた佇まいが、名もなき人物の静かな眠りを物語っているようです。

お墓の背面にまわり込むと、石碑の裏側には「正三位勲一等新渡戸先生墓誌」と題されたプレートがはめ込まれているのが確認できます。

静けさと歴史が交錯する場所
多磨霊園の広い空の下で、静かに過去を偲ぶひととき。新渡戸稲造のお墓は、国際人としての生き方や日本の精神文化の奥深さを改めて感じさせてくれる場所です。観光地ではありませんが、静かにその偉人の足跡に触れるには、これ以上ない空間かもしれません。
「たまのや」のお墓参り代行サービス
「たまのや」では、多磨霊園限定でお墓参りの代行・清掃サービスを行っております。ご高齢の方や遠方にお住まいの方に代わり、誠意を込めて供花や清掃などを代行いたします。