リヒャルト・ゾルゲのお墓を訪ねて|多磨霊園に眠るソビエト連邦の英雄

目次

ソビエト連邦の英雄 リヒャルト・ゾルゲのお墓を訪ねて

東京都府中市にある多磨霊園。その一角「17区1種26側16番」に、ソビエト連邦英雄・リヒャルト・ゾルゲの墓があります。ドイツ生まれのジャーナリストであり、ソ連の諜報員として活躍した彼の墓所は、歴史の交差点として今も多くの訪問者を引きつけています。

『風立ちぬ』カストルプのモデルになった事でも知られているリヒャルト・ゾルゲ

多磨霊園の東側に位置する「17区」へ

墓所は東側の奥まった場所にあり、区画番号の確認が必須です。一般的なお墓が並ぶ中に、赤い旗が目を引きます。これがゾルゲの墓の目印です。

17区1種26側

一般的なサイズのお墓が並ぶ区画です。

日本の霊園ではあまり見られない赤い旗が見えてきました。

こちらがゾルゲの墓所です。

ソビエト連邦英雄 ゾルゲの墓

墓石にはロシア語で「ソビエト連邦英雄 リヒャルト・ゾルゲ」と刻まれ、「1895–1944」の生没年が記されています。「勝利の旗」とともに、スターリンの肖像や旧ユーゴスラビアの国旗のようなものが掲げられており、政治的な色彩が強く感じられます。

多磨霊園の中でも、これほどまでに“政治的色彩”が色濃く表れている墓所は珍しく、訪れる者の目を引きます。

墓石には「妻 石井花子」と刻まれています。
戦後まもなく、国際情勢が不安定だった時期に、花子は雑司ヶ谷の共同墓地に土葬されていたゾルゲの遺骸を探し出し、多磨霊園に新たに墓所を購入。1950年11月、遺骨を納めました。

以降、彼女は長年にわたりこの墓を守り続けましたが、現在、ゾルゲの墓所については、長年管理を続けてきた相続人との合意により、使用権が在日ロシア大使館へ正式に譲渡されております。

スターリンの肖像は「戦争勝利の象徴」として掲げられていると推測できます。

墓石に覆いかぶさるように掲げられているのはユーゴスラビアの旗。ユーゴスラビア出身の関係者(または支持者)が敬意を表して持参した可能性があります。

ゾルゲの墓と「勝利の旗」——ロシア外交官による追悼

掲げられている「勝利の旗」は、1945年にソ連軍がベルリンのドイツ国会議事堂に掲げた赤い旗で、ナチス・ドイツに対する勝利の象徴です。現在でもロシアでは戦勝記念や愛国心のシンボルとして使われています。

2025年4月26日には、大祖国戦争勝利80周年を前に、在日ロシア大使館の外交官やロシア系市民団体が墓参を行い、旗を掲げました。この墓所は過去と現在をつなぐ記憶の場でもあります。

ゾルゲの墓に掲げられた勝利の旗。

「戦争に反対した勇士の碑」

ゾルゲの墓の隣には「戦争に反対し世界平和の為に生命を捧げた勇士ここに眠る」と刻まれた慰霊碑があります。

ゾルゲの略歴/国籍 ドイツ/1895年10月4日 バグーに生まれる/1933年9月 日本に来る/
1941年10月18日 検挙される/1944年11月7日 死刑にされる/1964年11月ソ連邦英雄の称号をおくられる

ゾルゲの略歴がとても端的に綴られています。彼が語ることのない“もうひとつの戦争の物語”が、この静かな墓域には秘められているように感じました。

「ゾルゲとその同志たち」

もう一方の慰霊碑には、「ゾルゲとその同志たち」と題され、11人の名前と命日が刻まれています。そのうち2名は死刑、5名は獄中死、さらに1名は釈放直後に死亡するという、悲劇的な最期を遂げました。

この石碑は、「世紀のスパイ事件」と呼ばれるこの歴史的出来事が、いかに過酷で多くの犠牲を伴ったものであったかを静かに物語っています。彼らもまた、それぞれの信念のもとに命を賭した、ゾルゲのかけがえのない仲間たちです。

石碑の裏には宮城与整による詩が刻まれています。 宮城与徳は、沖縄出身の洋画家・左翼運動家としてソ連のスパイ団に参加し、ゾルゲの情報活動を支えていました。

ふた昔 過ぎて花咲く わが与徳
多磨のはらから さぞや迎えん

― 宮城与整

この詩文は、単なる追悼ではなく、国家や歴史によって断ち切られた命と、その後にようやく訪れた名誉回復を象徴する一節として、現在も静かに読み継がれています。

リヒャルト・ゾルゲとは何者か?

リヒャルト・ゾルゲ(1895–1944)は、**ドイツ生まれのジャーナリストにしてソ連の諜報員(スパイ)**でした。彼は第一次世界大戦後に共産主義思想に傾倒し、やがてソビエト連邦の情報機関「赤軍情報部(GRU)」の要員となります。

ゾルゲの最も有名な任務は、1933年に日本に潜入し、「ドイツ通信社の記者」という表の顔で日本国内にソ連のスパイ網を築き上げたことです。彼は日本政府やドイツ大使館の関係者と親密な関係を築き、日独伊三国同盟やソ連との開戦の意志など、極めて重要な軍事・外交情報をモスクワへ送り続けました。

日本での逮捕と処刑の経緯

ゾルゲは1941年10月に日本の特高警察(特別高等警察)により逮捕されます。容疑は治安維持法違反、スパイ活動、および国家機密漏洩。彼のスパイ網には日本共産党員や新聞記者、軍関係者なども含まれており、大規模な摘発に発展しました。

ゾルゲは取り調べにおいてスパイ行為を全面的に認め、**最終的に日本政府は外交的配慮を拒否し、1944年11月7日、東京拘置所で処刑(絞首刑)**されました。ソ連は当時、彼のスパイ活動を一切認めず、日本政府に助命嘆願もしませんでした。

第一次世界大戦中に負傷し、入院中のゾルゲ

ソ連での再評価と「英雄」への昇格

皮肉にも、ゾルゲの評価が大きく変わるのは彼の死後20年が経った1964年です。この年、ソ連政府はようやくゾルゲの諜報活動の全容を公表し、「ソ連邦英雄」の称号を授与しました。それによりゾルゲは、祖国をナチス・ドイツの侵略から守るために身を捧げた英雄と位置づけられました。

特に注目されたのは、ゾルゲが日本政府の内部情報を通じて、ドイツがソ連を攻撃しても日本は極東では動かない(北進しない)ことを事前に知らせたとされる点です。これによりスターリンは極東から軍をヨーロッパ戦線に転用でき、モスクワ攻防戦に勝利したともいわれています(諸説あり)。

イジェフスク市にあるリヒャルト・ゾルゲの記念碑

現在の評価と墓所

リヒャルト・ゾルゲは、冷戦期を通じてソ連(のちにロシア)で「国民的英雄」として称えられ、映画や記念切手の題材にもなりました。一方で、スパイという存在ゆえに国際的には賛否両論があり、「スパイか英雄か」という議論も根強く存在します。

死後20年を経て名誉回復を果たしたゾルゲ。その栄誉を象徴するように、旧東ドイツが発行した切手の片隅には「ソ連邦英雄」の文字が刻まれています。

戦勝記念日の外交官による墓参り

毎年5月9日、旧ソ連がナチス・ドイツに勝利した「戦勝記念日(День Победы)」には、在日ロシア大使館の外交官や駐日大使たちが、このゾルゲの墓を訪れるのが慣例となっています。ソ連崩壊後もその伝統はロシアによって引き継がれており、近年ではロシアに加え、ベラルーシ、アゼルバイジャン、ウズベキスタンなど旧ソ連圏の友好国6か国の大使たちも参加。多磨霊園という日本の静謐な空間で、国際政治と歴史が静かに交錯する瞬間が生まれています。

このような外交的儀礼は、ゾルゲという人物が、単なる諜報員という枠を超え、「祖国を救った英雄」としてロシアで今なお強く敬意を持たれていることを物語っています。

多磨霊園は静かに語る

多磨霊園には、著名な文化人・政治家・軍人など、近現代史を彩った人物たちが数多く眠っています。
その中でもリヒャルト・ゾルゲの墓は、歴史に対する解釈の多様さと、戦争と平和に対する問いかけを我々に残してくれる、特異な存在です。

この墓を訪れることで、「諜報活動」とは何か、「愛国」とは何か、そして「歴史の真実」とは何かについて、改めて考えるきっかけになるかもしれません。

「たまのや」のお墓参り代行サービス

「たまのや」では、多磨霊園限定でお墓参りの代行・清掃サービスを行っております。ご高齢の方や遠方にお住まいの方に代わり、誠意を込めて供花や清掃などを代行いたします。

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